「先生、これ…どこに腕を置いても気持ち悪いんです。」
初診の日。
50代の男性患者さんは、少し疲れ切った表情でそう話されました。
会社役員として、毎日膨大な判断を迫られる日々。
朝から晩までパソコンに向かい、気づけば10時間以上座りっぱなし。
仕事が終わっても頭は休まらず、眠りも浅い。
症状は左腕の痺れ。
ただ、「ビリビリ痛い」というより、
「腕が自分のものじゃない感じ」
「どこに置いてもしっくりこない」
「午後になると、腕の居場所がなくなる」
そんな表現のほうが近い状態でした。
整形外科では「軽度の頚椎ヘルニア」と説明を受け、牽引や電気治療、マッサージを1か月受けたものの、大きな変化はなかったそうです。
もちろん、頚椎ヘルニアは上肢症状の原因になりえます。
しかし臨床では、画像所見と症状の強さが一致しないケースも少なくありません。
特に今回のように、
・知覚検査に大きな異常がない
・筋力低下がない
・握力低下もない
・腱反射は軽度変化のみ
という場合、「本当に神経根障害だけなのか?」を慎重に考える必要があります。
人の身体は、単純な配線図ではありません。
筋肉。
感覚。
自律神経。
姿勢。
眼球運動。
呼吸。
平衡感覚。
それらがひとつのオーケストラのように協調して働いています。
そして今回のケースでは、その演奏にいくつものズレが起きていました。
検査で見えてきた「単なる首の問題ではない」という所見
まず、左上肢の感覚検査を行いました。
触圧覚、痛覚ともに明確な左右差はありません。
筋力低下や握力低下も認めませんでした。
これは重要なポイントです。
もし強い神経根障害であれば、
・デルマトームに沿った感覚低下
・筋力低下
・反射異常
などが、より明確に出現することがあります。
一方で今回目立ったのは、
「感覚そのものが消えている」のではなく、
「感覚の質が歪んでいる」
という特徴でした。
特に頚部周囲では、
・左胸鎖乳突筋
・斜角筋群
・上部僧帽筋
に強い圧痛と痛覚過敏が認められました。
さらに振動覚検査では、左側だけ振動の感じ方が異なります。
右は「スッ」と自然に広がるのに対し、左は、
「弱い」
「広がり方がいびつ」
「輪郭がぼやける」
ような感覚。
これは単なる末梢神経圧迫だけでは説明しにくい所見です。
脳は感覚を受け取っているだけではありません。
どの感覚を重要視するか。
どこから来た刺激か。
どのくらい危険か。
常に「編集」しています。
つまり問題は、
「感覚が入っているか」だけではなく、
「感覚がどう統合されているか」
なのです。
左腕の痺れを再現した「責任筋」
さらに触診を進めると、
・中斜角筋
・小胸筋
・棘下筋
で明確なジャンプサインが認められました。
そして興味深いことに、これらの筋への刺激で、
「いつもの左腕の痺れ感」
が再現されました。
これはトリガーポイントによる関連痛パターンとして非常に特徴的です。
特に斜角筋群や小胸筋は、腕神経叢や血管と解剖学的に近接しています。
長時間の不良姿勢や呼吸異常によって過活動状態になると、
・局所循環低下
・筋内代謝異常
・侵害受容器感作
が起こりやすくなります。
すると脳は、その異常入力を「腕の痺れ」として知覚することがあります。
つまり今回の症状は、
「神経が切れている」のではなく、
「脳が危険信号として痺れを生成している」
可能性が高い状態でした。
なぜ午後になると悪化するのか?
患者さんは、
「午前中はまだマシなんです。でも午後から急にきつくなる」
と話されていました。
これは非常に重要なヒントです。
もし構造的圧迫が主因なら、時間帯による変動は比較的一定なことも多いです。
しかし今回のようなケースでは、
・疲労蓄積
・交感神経緊張
・呼吸低下
・感覚処理疲労
が大きく関与している可能性があります。
脳は大量の感覚情報を処理しています。
特に長時間のPC作業では、
・眼球運動の固定化
・頚部固有感覚入力の偏り
・呼吸運動低下
・姿勢固定
が起こります。
これは例えるなら、
「同じ筋肉だけで延々と重い荷物を持ち続けている状態」
です。
本来、身体は細かく揺らぎながらバランスを取っています。
しかし長時間座位では、その“微細な揺らぎ”が減少します。
すると脳は、限られた入力だけを繰り返し受け続けることになります。
特に頚部は、
・視覚
・前庭感覚
・体性感覚
を統合する極めて重要な領域です。
ここに入力偏位が続くと、中枢神経系は徐々に「危険」を学習していきます。
自律神経系の左右差
今回、非常に特徴的だったのが自律神経系の左右差です。
血圧は150/100mmHg台。
しかも左右差が認められました。
さらに対光反射では、片側の縮瞳反応が緩慢。
これは、
・交感神経出力の左右差
・脳幹レベルでの統合偏位
・自律神経調整不均衡
を示唆する重要な所見です。
自律神経は単なる「リラックス神経」ではありません。
筋緊張
血流
痛覚感受性
瞳孔
呼吸
内臓
注意
それらすべてに関与します。
慢性的ストレス状態では、脳は常に“警戒モード”になります。
すると呼吸は浅くなり、胸郭運動は減少し、頚部筋群は過緊張化しやすくなります。
特に斜角筋は、呼吸補助筋でもあります。
つまり今回の患者さんでは、
「呼吸の乱れ」
↓
「斜角筋過活動」
↓
「侵害入力増大」
↓
「関連痛形成」
という流れが起きていた可能性があります。
眼球運動異常と小脳系の関与
さらに検査では、
・サッケードでオーバーシュート
・パースートへのサッケード混入
・右上方視での円運動のカクつき
が認められました。
加えて、
・ロンベルグ動揺
・継足歩行閉眼で偏奇増大
・鼻指鼻で左測定障害
も認めています。
これらは小脳系、前庭系、眼球運動統合系の機能低下を示唆します。
小脳は「運動だけの場所」ではありません。
実際には、
・姿勢制御
・予測制御
・眼球運動
・自律神経
・感覚予測
などにも深く関与しています。
長時間PC作業では、眼球運動は極端に単調化します。
本来、人間の眼は立体空間を自由に探索しながら動きます。
しかしPC作業では、
「狭い範囲を固定視し続ける」
時間が何時間も続きます。
すると、
・前庭眼反射
・視覚追従
・空間認識
の活動パターンが偏ります。
その結果、頚部筋群の緊張パターンにも影響を与えます。
頚部と眼球運動は密接にリンクしているためです。
今回行った施術
まず行ったのはBASE療法による呼吸調整です。
呼吸は単なる酸素交換ではありません。
呼吸リズムは、
・迷走神経
・心拍変動
・脳幹活動
・姿勢筋活動
にも影響します。
特に慢性ストレス下では、吸気優位となり、胸郭上部の固定化が起こりやすくなります。
その後、左足底から振動刺激を入力しました。
足底は極めて重要な感覚入力部位です。
床反力情報は、小脳・前庭系・姿勢制御系へ大量に入力されます。
今回は左側の感覚統合低下を考慮し、左足底から入力を強化しました。
その状態で、
・斜角筋
・棘下筋
・胸鎖乳突筋
へトリガーポイント刺鍼を行いました。
単に「硬い筋肉をほぐす」という発想ではありません。
侵害入力を減少させながら、正常感覚入力を再学習させること。
それが目的です。
さらにその後、眼球運動・平衡系を含む機能神経学的アプローチを行いました。
なぜこれらの筋に問題が形成されたのか?
今回の症例で重要なのは、
「なぜ左側ばかりに問題が集中したのか?」
という点です。
考えられる要因はいくつかあります。
① 長時間座位による頚胸郭固定
座位が長時間続くと、胸郭運動が低下します。
特にPC作業では、
・頭部前方位
・肩甲帯前方化
・胸椎伸展低下
が起こりやすくなります。
すると斜角筋や小胸筋が過活動になります。
② 呼吸低下
慢性ストレスでは横隔膜機能が低下しやすくなります。
その代償として、斜角筋や胸鎖乳突筋など呼吸補助筋への依存が増加します。
つまり“呼吸するだけで首が疲れる”状態です。
③ 感覚入力の左右差
振動覚や眼球運動所見から、左側感覚統合低下が疑われました。
脳は入力が少ない領域を「不安定」と認識します。
すると姿勢筋トーンを変化させ、防御的収縮を起こします。
④ PC作業による眼球運動偏位
視線固定時間が長いと、前庭眼球系の活動パターンが偏ります。
眼球運動異常は頚部筋緊張と強く関連します。
特に上位頚椎と眼球運動は、脳幹レベルで密接に統合されています。
⑤ 慢性ストレスによる警戒状態
慢性的な精神的緊張は、脳の“安全判定”を変化させます。
すると通常なら問題にならない感覚も、脳が「危険」と解釈しやすくなります。
その結果、
・痛み
・痺れ
・違和感
が慢性化しやすくなります。
「画像」だけでは見えないもの
今回の患者さんには軽度ヘルニア所見がありました。
しかし重要なのは、
「画像に写るものだけが原因とは限らない」
ということです。
逆に、MRIで強いヘルニアがあっても無症状の人はいます。
つまり症状とは、
構造 × 神経系 × 感覚統合 × 自律神経 × 心理社会的要因
の総合結果なのです。
身体は単なる部品の集合ではありません。
神経系は、常に未来を予測しながら身体を制御しています。
その予測が崩れた時、人は「痛み」や「痺れ」を感じます。
今回のケースは、まさにその複雑な統合異常が、左腕という形で現れていた症例でした。
最後に
施術後、患者さんはこう話されました。
「久しぶりに、自分の腕が“ここにある感じ”がします。」
痺れとは、単純な神経圧迫だけでは説明できないことがあります。
筋。
感覚。
呼吸。
姿勢。
眼球運動。
自律神経。
脳の予測。
それらを統合的に評価することで、見えてくるものがあります。
もし、
・検査では大きな異常がない
・でも症状はつらい
・治療を受けても変わらない
そんな状態が続いているなら、「神経系全体の働き」という視点が役立つことがあるかもしれません。
参考・出典文献
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