はじめに
「顎が開きにくいんです…。」
そう話された彼女の声は、どこか遠慮がちでした。
40代、3児の母。フルタイムで働く会社員。
一日中デスクに向かい、ほとんど座りっぱなしの生活。
顎の痛みだけでなく、
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ふわふわと足元が不安定になるようなめまい
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夜中に何度も目が覚める不眠
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高音が異様に耳に響く聴覚過敏
これらが、ほぼ同じ時期に重なって出てきたと言います。
どれも、単独であれば「よくある不調」として扱われがちな症状。
しかし、彼女の体では一つの流れとしてつながっていました。
2か月前、静かに始まった異変
最初の違和感は、ほんの些細なものでした。
「なんとなく、口が開きにくい気がする」
朝の歯磨き。
あくびをしようとした瞬間。
食事のときに、以前より顎が重い。
やがて、右の顎に痛みが出始め、歯科を受診。
顎関節症と診断されました。
CT検査では、
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関節円板の変形なし
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骨の異常なし
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明らかな引っ掛かりもなし
「構造的な問題は見当たりません」
「筋肉の緊張でしょう」
そう説明され、ボトックス注射を受けました。
しかし
「思っていたほど楽にならなかった。」
顎の痛みは残り、
それと並行するように、別の不調が顔を出し始めます。
顎だけでは説明できない症状たち
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地面が揺れるような、ふわふわしためまい
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夜中に目が覚め、その後眠れない
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食器が当たる音、子どもの声、高音が異様に響く
「気のせいかな。」
「疲れているだけかもしれない。」
そうやってやり過ごしながら、
彼女は仕事と育児を続けていました。
3人の子ども。
家事。
仕事。
自分の不調は、いつも後回し。
「顎関節症と、めまいや不眠って関係あるんでしょうか?」
そう問いかける声には、
不安と諦めが混じっていました。
鍼治療を探して、当院へ
知人から、
「鍼治療が合うかもしれないよ」
と聞いたことが、来院のきっかけでした。
インターネットで当院を見つけ、
「顎関節症」「めまい」「鍼治療」
その言葉を頼りに来られたそうです。
初診時、私が最初にお伝えしたのは、
「顎だけではなく、お身体全体の状態を見ていきます。」
という言葉でした。
顎関節症は、
顎だけを治そうとすると、うまくいかないケースが多いからです。
初診検査で見えてきた“感覚のズレ”
顎・筋肉の状態
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開口量:2横指
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左顎関節のグライディング制限
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頚部の回旋制限
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右咬筋・右側頭筋・右内側翼突筋に明確なジャンプサイン
触れた瞬間、
「そこです…」
と体が反応するほどの過緊張。
さらに、
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肩こり
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背中の張り
が非常に強く、
首から背中まで“鎧を着ているような硬さ”でした。
聴覚・平衡感覚の検査
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リンネテスト:左右差
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ウェーバーテスト:偏位あり
これは、音の感じ方が左右で異なっていることを示します。
さらに、
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ロンベルグテスト:動揺
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継足歩行:不安定
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鼻指鼻試験:測定障害
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オルタネイト:左右差
小脳と前庭系の協調が乱れているサインが、はっきりと出ていました。
眼球運動の検査
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サッケードでオーバーシュート
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輻輳反射で左右差
目は、脳の状態を映す「窓」です。
眼球運動の精度低下は、
脳幹〜小脳系の調整不全を示唆します。
体性感覚の検査
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右足部の振動覚低下
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痛覚低下
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足趾識別覚異常
(小指と薬指の感覚が入れ替わっている)
「顎の症状なのに、なぜ足?」
そう思われるかもしれません。
しかし、これは重要な手がかりでした。
顎ではなく「脳の地図」が乱れていた
私たちの脳には、
身体地図(ホムンクルス)があります。
どこに手があり、
どこに足があり、
どれくらい動いているか。
その地図は、
日々の「感覚入力」によって更新されます。
彼女の体では、
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足からの感覚入力が弱い
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体幹の情報も乏しい
結果として、
脳内の身体地図が曖昧になっていたと考えられました。
なぜ、こうなったのか?
2年前までの生活
彼女は2年前まで、営業職でした。
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外回り
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よく歩く
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体を動かす
自然と、
足・体幹・視覚・前庭から
豊富な感覚入力が入っていました。
現在の生活
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ほぼ一日中デスクワーク
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長時間座位
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動かない
この「不動」の時間が、
じわじわと体を変えていきました。
不動がもたらす“静かな変化”
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足・体幹からの感覚入力が減る
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小脳への情報が乏しくなる
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姿勢・筋緊張の微調整ができなくなる
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顎・首・肩に過剰な緊張が集中
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顎関節症、めまい、聴覚過敏、不眠として表出
顎は、
一番「声を上げやすい場所」だった
それだけのことでした。
施術の考え方
「 顎を治すのではなく、顎に負担をかけない状態を作る。」
施術の目的は、
「顎の筋肉を無理に緩めること」
ではありません。
脳が安心して力を抜ける環境を作ることです。
実際の施術内容
トリガーポイント鍼治療
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咀嚼筋群(咬筋・側頭筋・内側翼突筋)
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頚部
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肩部
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背部
痛みを追いかけるのではなく、
神経入力を整える刺激量を意識しました。
機能神経学的アプローチ
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眼球運動
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前庭刺激
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体性感覚の再教育
「動かす」より、
「感じ直す」ことを重視。
施術経過
「ゆっくり、でも確実に 」
1〜3回目
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顎の重さが少し軽くなる
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肩・首が楽
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めまいの頻度が減少
4〜6回目
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開口がスムーズ
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夜中の中途覚醒が減る
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音の刺激が気になりにくくなる
7〜9回目
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顎の痛みはほぼ消失
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めまいなし
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不眠・聴覚過敏も日常生活で問題なし
「気づいたら、普通に戻っていました」
そう話された表情は、
初診時とは別人のようでした。
この症例が教えてくれること
顎関節症は、
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顎の病気
ではなく、 -
体と脳の関係が崩れた結果
として現れることがあります。
特に、
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デスクワーク
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運動不足
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感覚入力の偏り
が続く現代では、
珍しいことではありません。
おわりに
「顎が痛い」
その奥には、
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脳
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感覚
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生活環境
が静かに影響し合っていることがあります。
もし、
顎の治療だけで変化が出ないなら、
視点を少し広げてみる価値があるかもしれません。
参考文献・出典
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Lund JP, Kolta A. Generation of the central masticatory pattern and its modification by sensory feedback. Dysphagia. 2006.
-
Sessle BJ. Mechanisms of oral somatosensory and motor functions and their clinical correlates. J Oral Rehabil. 2006.
-
Peterka RJ. Sensorimotor integration in human postural control. J Neurophysiol. 2002.
-
Ivry RB, Spencer RM. The neural representation of time. Curr Opin Neurobiol. 2004.
-
Proske U, Gandevia SC. The proprioceptive senses. Physiol Rev. 2012.
-
List T, Jensen RH. Temporomandibular disorders: Old ideas and new concepts. Cephalalgia. 2017.