はじめに
こんにちは。
大阪府枚方市「はる鍼灸整骨院」院長の島井です。
私が日々感じることがあります。
それは「痛みとは、体の叫びである」と同時に、「必ずしも痛む場所が悪いわけではない」ということ。
多くの人が“痛い場所=原因”と思いがちですが、実際はもっと複雑です。
身体は、筋肉・関節・神経・感覚・脳が絶妙なバランスで動く精密機械。
どこか一つがズレると、全体のリズムが乱れ、結果として“痛み”という形で表面化します。
今回は、そんな「ズレ」がもたらした痛みを克服した一人の女性のストーリーを紹介します。
彼女は15年ぶりに空手を再開し、見事に優勝を果たしました。
しかしその翌日、思いもよらぬ股関節痛に襲われたのです。
15年ぶりに道着を着た日
30代の会社員。二人の息子を育てる母。
半年前、息子たちが空手を始めたことがきっかけでした。
「私も昔、大学まで空手やってたんです」と彼女は笑顔で話していました。
15年ぶりに袖を通した道着は、少し硬く感じたと言います。
でも、その感触が懐かしかった。
道場の床の音、正座の空気、気合いの声。
身体が記憶していたリズムが、少しずつ蘇っていったそうです。
最初の1ヶ月は、筋肉痛だらけ。
でも、やるほどに体のキレが戻っていく。
家では子どもたちと一緒に突きや蹴りの練習をして、笑い合う毎日。
“母であり、同じ道を歩む仲間”としての時間が増えたと話してくれました。
半年後、親子で同じ大会に出場。
会場のざわめき、道場の空気。
久しぶりに試合場に立つ感覚に、心臓が高鳴ったそうです。
そして結果は「優勝」。
15年のブランクを感じさせない見事な復活劇でした。
翌日に訪れた違和感
しかし翌日、左股関節に鋭い痛み。
階段を上るだけでズキッとくる。
歩くたびに引っかかるような感覚。
整形外科でレントゲンを撮るも「異常なし」。
湿布をもらい、安静を指示されました。
それでも痛みは引かない。
2週間たっても同じ。
知人の紹介で、当院に来院されました。
初回の検査と治療
検査では、左中殿筋と大腿筋膜張筋に強い圧痛を確認。
特に触れると飛び上がるような反応
いわゆる“ジャンプサイン”がありました。
股関節の動きそのものは可動域に問題なし。
歩行時も明確な跛行はない。
ただ、特定の角度でピンポイントに痛む。
これは典型的なトリガーポイント性疼痛の特徴。
その日はトリガーポイント鍼治療で対応。
中殿筋や大腿筋膜張筋に刺鍼し、10分後に抜針。
ベッドから起き上がると、
「痛くない…不思議!」と笑顔。
この日はそのまま帰宅。
再発。そして見えてきた“本当の原因”
3日後、「もう大丈夫だろう」と軽く道場へ。
ところが、翌日また同じ部位に痛み。
初回ほど強くはないが、明らかに再発している。
このタイミングで、神経学的な検査を追加しました。
結果は次の通り。
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左下腿外側の一部に痛覚過敏
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左足底に振動覚の低下
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継ぎ足歩行・片脚立位での動揺
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左足関節の位置覚異常
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眼球運動検査でサッケードのオーバーシュート
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輻輳反射(寄り目反応)の左右差
つまり、
彼女の身体は“空手動作”という高精度な運動に対し、
身体の位置情報を正確に処理できていなかったのです。
神経学的にみた「ズレ」
人間の動作は、脳内のセンサーシステムによって制御されています。
足底や関節からの位置情報(体性感覚)、
耳の中の前庭器官(平衡感覚)、
そして目からの視覚情報。
これらが小脳で統合され、動作の誤差を修正しています。
このプロセスを「フィードバック制御」といいます。
そして小脳が持つ重要な働きが「誤差学習」。
同じ動きを繰り返すことで、動作の精度が上がっていく仕組みです。
彼女の場合、
15年というブランクの間に“センサー系”が鈍くなっていた。
子どもの成長、デスクワーク、育児による睡眠不足。
そうした日常が、自律神経系のバランスや感覚入力の精度を下げていたと考えられます。
つまり、
「股関節が悪い」のではなく、
感覚情報のズレが、結果的に股関節の筋肉へ過負荷をかけたという構図です。
生理学的視点からの痛みの発生
トリガーポイントは、筋肉の中で局所的に血流が滞り、代謝が低下した部位。
そこではATP(細胞のエネルギー源)の産生が不足し、筋繊維が弛緩できなくなります。
この状態が続くと、感覚神経終末が過敏になり、痛み物質(ブラジキニン、サブスタンスPなど)が放出される。
これが「押すと飛び上がる痛み」の正体。
ではなぜ、このような代謝低下が起きたのか。
それは「使いすぎ」ではなく、誤った筋の使われ方が原因。
小脳が誤った動作プランを修正できないと、
筋の出力バランスが崩れ、一部に過緊張が生まれるのです。
まさに、
神経学と筋生理学が交わるポイントでした。
施術の再構築
二回目以降は、トリガーポイント治療に加えて、
機能神経学的アプローチを導入しました。
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視覚系(サッケード/輻輳反射)の左右差に対して、視線トレーニング
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前庭系への軽刺激
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片脚立位と足底刺激による体性感覚入力の再教育
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呼吸リズムの再調整(横隔膜と迷走神経反射)
これらは「動作の正確性」を取り戻すためのリハビリです。
筋肉を“ほぐす”だけでは、再発を防げません。
動きの“設計図”そのものを修正しなければならないのです。
身体が変わっていく瞬間
3回目の施術の頃には、片脚立位でのブレが明らかに減少。
本人も「左足が地面をつかむ感覚が戻ってきた」と話していました。
それは、筋力ではなく位置感覚の回復。
まるで地面とのWi-Fi接続が安定したように、全身の動きがスムーズになっていきました。
5回目には、痛みも、検査上の異常も消失。
軽い稽古を再開。
そして1ヶ月後、再発なしを確認して卒業。
神経学的に見た“再発しない理由”
小脳と大脳のネットワークが整うと、
運動の精度が高まり、筋肉に無駄な力が入らなくなります。
この状態では、局所の筋緊張や血流低下が起こりにくい。
結果として「痛みが戻らない身体」がつくられます。
また、彼女のように競技経験のある人は、
動作記憶(運動エングラム)が強く残っています。
正しい感覚入力を与えれば、脳がそれを“上書き”して再学習する。
これが神経可塑性(Neuroplasticity)の力です。
心理的要素との関係
興味深いのは、彼女が初回にこう言ったことです。
「子どもたちに負けたくなくて、無理してしまったかも」と。
競技復帰に伴う緊張、プレッシャー、期待。
これらは交感神経を高め、筋緊張や血流低下を招きます。
痛みは、単なる組織の問題ではなく、
心理的・神経的要素が複雑に絡み合った“システムの乱れ”でもあります。
再発ゼロで卒業
1か月後、再発なし。
「もう大会にも出たい」と笑顔で話す彼女。
その姿は、痛みに負けていた頃とはまるで別人でした。
子どもと同じ畳の上で笑う母の背中には、
“身体の回復”だけでなく、“生き方の回復”が宿っていました。
まとめ
この症例が教えてくれるのは、
「痛みは結果であり、原因は神経系に潜む」ということ。
股関節痛=股関節の問題
ではない。
身体はネットワーク。
視覚・前庭・体性感覚のどれかが狂えば、全体が歪む。
そして筋肉はその歪みの“最後の防波堤”として痛みを出す。
鍼灸と機能神経学は、
そのネットワークを再構築するための有効な手段です。
院長より一言
長年臨床をしていて感じるのは、
“筋肉の痛み”というのは「脳の誤差修正が間に合っていない信号」だということ。
筋肉を緩めるだけではなく、“誤差を生まない体”をつくる。
それが私たちが目指す治療です。
出典・参考文献
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Ito M. (2006). Cerebellar control of the vestibulo-ocular reflex—around the flocculus hypothesis. Annu Rev Neurosci, 29: 453–482.
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Simons DG, Travell JG. (1999). Myofascial Pain and Dysfunction: The Trigger Point Manual.
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Schmahmann JD. (2019). The cerebellum and cognition. Neuroscience Letters, 688: 62–75.
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Craig AD. (2014). How do you feel? Interoception: the sense of the physiological condition of the body. Nature Reviews Neuroscience, 15(11): 655–666.
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Carrick FR. (2017). Neurophysiological basis for functional neurological rehabilitation. Frontiers in Human Neuroscience, 11: 103.