物が大きく見える理由を脳科学で解く

はじめに
インフルエンザの流行とともに増える「感覚の違和感」
今年もインフルエンザの流行が早く、
解熱後の不調を訴える患者さんの来院がちらほら増えています。
「熱が下がったのに、まだ体がフワフワする」
「視界が変に見える」
「腕が重くて自分のじゃないみたい」。
こうした訴えを、ここ数週間で数回聞くことがありました。
多くの方は、「高熱のせいで疲れているだけ」「気のせいかな」と思いがちですが、
実はこの現象には脳の感覚統合ネットワークの変化が深く関係しています。
単なる“熱の後遺症”ではなく、
脳が一時的に、見えている世界、感じている世界を
正しく感じ取れなくなっている状態です。
ある患者さんの体験:「世界が広がって見えた夜」
40代の女性。
インフルエンザB型に感染し、3日間38℃台の熱が続きました。
熱が落ち着き始めた夜、ふと部屋の明かりを見上げた瞬間、
「天井がものすごく遠くに感じる」「部屋全体が大きくなった気がする」と違和感を覚えたそうです。
同時に、「腕が重くて上がらない」「体が自分のものじゃないような感覚」に襲われた。
翌日熱は下がり、意識もはっきりしているのに、この“違和感”だけが残っていた。
この現象には名前があります。
それが「マクロプシア(macropsia)」。
そして「腕の重さ」という感覚も、同じメカニズムの延長線上にあります。
マクロプシアとは? 発熱で世界のスケールが歪む現象
マクロプシアとは、「周囲の物が実際よりも大きく見える」視覚的知覚異常のことです。
逆に小さく見えるのは「マイクロプシア」。
これらは“錯視”よりも上位の、視覚処理のゆがみ(知覚レベルの変調)です。
発熱時、脳の視覚野(特に後頭葉の一次〜二次視覚野)では血流・代謝が変化します。
炎症性サイトカイン(IL-1β, TNF-α)などが神経伝達を変調させ、
視覚情報をスケーリング(大きさ・距離感)するネットワークが一時的に誤作動を起こします。
その結果、実際には変わっていない世界が、拡大して感じられるのです。
発熱時の幻視的体験、あるいは「世界が遠くにある」「部屋が広がる」という感覚も、
この機構で説明がつきます。
インフルエンザが脳に及ぼす影響
インフルエンザウイルスは呼吸器系の感染症ですが、
発熱によって体内では神経系への波及効果が起こります。
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高体温による脳代謝の上昇
→ 一部の神経細胞が過興奮し、視覚処理野の抑制バランスが崩れる。 -
サイトカインストームによる神経伝達抑制
→ 小脳・視床・大脳皮質の結合に微細な同期ずれが生じる。 -
血流の再配分
→ 深部構造(小脳・脳幹)への血流が減少し、感覚統合機能が一時的に低下。
つまり、インフルエンザは単に「体の炎症」ではなく、
脳全体に電気的・化学的なノイズを生じさせます。
小脳の役割:世界を安定させる「内部座標軸」
小脳は、単に運動をコントロールする器官ではありません。
実際には「世界を安定して感じる」ための内部キャリブレーション装置です。
視覚・平衡・位置覚など、異なる感覚情報を時間軸上で統合し、
「私が今どこにいて、何を見ているのか」を補正しています。
発熱時や炎症時、小脳のPurkinje細胞の興奮性が変化し、
この補正機能がうまく働かなくなります。
すると
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世界が広がる/縮む(視覚的スケール異常)
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自分の体が重い/大きい(身体スキーマの異常)
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空間の奥行きが分かりにくい(距離感の異常)
といった“感覚のゆがみ”が起こります。
「腕が重い」も、同じ座標のズレから生じる
「腕が重い」「力が入らない」「自分の体が遅れて動く」
これらの感覚は、筋肉の問題よりも位置覚(proprioception)の乱れで説明できます。
位置覚は、筋紡錘・腱器官・関節受容器から得られる情報をもとに、
小脳と頭頂葉が「今、腕がどこにあるか」「どれくらい動いているか」を計算する感覚。
発熱や疲労によってこのループが乱れると、
脳が自分の体の正確な地図(ボディスキーマ)を再構成できなくなり、
結果として「腕が重い」「感覚がずれる」ように感じます。
つまり、マクロプシア(世界が大きく見える)も、腕の重さ(自己感覚の異常)も、
同じ“脳の座標軸の乱れ”から生まれています。
神経生理学的に見る「感覚統合の崩れ」
脳内のネットワークを簡略化して表すと、次のようになります。
熱や炎症によって小脳の発火タイミングがずれると、
視覚と体性感覚の同期が崩れ、
「見えている世界」と「感じている身体」の対応関係が破綻します。
脳はこの不一致を補正しようとしますが、処理が追いつかないとき、
その結果としてマクロプシア+腕の重さ感覚が同時に出現します。
臨床例:熱の後、世界が変わって見えた男性
50代男性。
インフルエンザA型で38.5℃の発熱。回復後に「視界が広がって見える」「腕が重い」と訴えて来院。
ロンベルグテストで開眼時の動揺が強く、閉眼ではさらに増大。
眼球運動ではサッケードにオーバーシュート。
明らかに小脳半球の機能低下を示唆していました。
治療は、まずBASE療法で静止膜電位を下げ、神経系の過敏状態をリセット。
その後、手足の末梢刺鍼で左右の固有感覚を再均衡し、
耳介刺激と呼吸誘導で脳幹・小脳系を賦活。
4回の施術で「世界のサイズ感が戻ってきた」「腕が軽くなった」と回復しました。
このように、“世界の見え方”と“身体の重さ”は切り離せない神経現象なのです。
機能神経学から見る“世界の歪み”の正体
発熱後に起こるこの現象を、機能神経学では感覚統合の時間的ズレ(temporal mismatch)と呼びます。
脳はミリ秒単位で、視覚・体性感覚・前庭感覚の情報を同期させています。
しかし、熱や炎症で神経伝達速度が変化すると、
入力信号の“タイミング”がずれ、
結果として感覚がズレて体験されるのです。
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小脳虫部・半球 → 視覚の補正機能低下
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頭頂葉 → 空間地図の再構築エラー
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視床 → 感覚情報の同期破綻
つまり、熱による小脳−頭頂葉ネットワークの一時的障害が、
「世界の拡大」と「身体の重さ」という二つの症状を生じさせます。
鍼灸・機能神経学的アプローチ
こうした感覚の乱れは、薬だけでは整いにくい領域です。
当院では、神経の再同調(re-synchronization)を目的に以下のような施術を行います。
① BASE療法
脳内の過剰警告信号をリセットし、静止膜電位を適正化。
神経活動のベースラインを整える。
② 末梢刺鍼(手足)
左右の位置覚入力を整え、体性感覚の対称性を回復。
③ 顔面・耳介への刺激
三叉神経や耳介迷走神経支配領域を介して脳幹網様体を刺激し、小脳機能を賦活。
④ 呼吸誘導・頭蓋リリース
胸郭運動を整えることで脳脊髄液循環を促進し、自律神経バランスを回復。
⑤ 視覚−身体同調エクササイズ
閉眼・開眼の切り替えや、視線移動+体幹運動によって感覚の再統合を促す。
施術後、多くの患者さんが「世界が戻った」「体の重さが消えた」と語ります。
発熱後に自宅でできるセルフケア
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目を閉じて腕や足の位置を意識する練習(ボディスキャン)
→ 位置覚入力を再強化。
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深呼吸・鼻呼吸で迷走神経を活性化
→ 小脳・脳幹系の興奮を安定化。
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ぬるめの入浴と十分な水分補給
→ 電解質(Na⁺/K⁺/Mg²⁺)のバランスを整え、神経伝達を正常化。
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画面・光刺激を減らす
→ 視覚過負荷による皮質興奮を防ぐ。
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片足立ち・足踏みなど軽い平衡運動
→ 小脳−前庭−体性感覚ネットワークを再訓練。
これらは、発熱後の“脳の地図のリセット”を助けるシンプルな方法です。
インフルエンザと神経系の関係は、まだ過小評価されている
インフルエンザは“熱の病気”というより、全身神経の同期が崩れる病態とも言えます。
発熱中はもちろん、回復期にも神経ネットワークが再調整を行っており、
その過程でさまざまな感覚の違和感が出現します。
マクロプシアや腕の重さ感覚は、その一端が可視化された現象です。
つまり「異常」ではなく、「脳が再構築している証拠」です。
まとめ:「世界の歪み」は、脳のリハーモナイゼーションのサイン
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発熱やインフルエンザ後に起こる「物が大きく見える」「腕が重い」は、
小脳−頭頂葉ネットワークの一時的な機能不均衡。 -
視覚と体性感覚の同期が崩れ、空間スケールの誤認が起こる。
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鍼灸と機能神経学的アプローチにより、
感覚の再同調(re-synchronization)を促すことで改善が見込める。
この冬、インフルエンザの流行とともに、
もしあなたが「世界が少し変に見える」「体が妙に重い」と感じたら、
それは脳がまだ回復途中というサイン。
ゆっくり休み、体の感覚を感じ直してあげてください。
参考・出典論文
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Liu J et al. Functional connectivity changes in Alice in Wonderland Syndrome: a resting-state fMRI study. Brain Imaging Behav. 2021.
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Komatsu M. Visual size perception and cerebellar involvement in spatial scaling. Neurosci Lett. 2020.
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Manto M. Cerebellar control of perception and action. Nat Rev Neurosci. 2019.
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Shoham S et al. Cytokine-mediated neuroinflammation in influenza infection. J Neuroimmunol. 2020.
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Ito M. The Cerebellum and Neural Control. Raven Press, 1984.
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Naito E et al. Representation of limb movement without proprioceptive input in the human brain. J Neurosci. 2002.
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Carrick FR et al. Functional Neurology, Proprioception and Motor Learning. Front Neurol. 2017.