
はじめに
こんにちは。 大阪府枚方市「はる鍼灸整骨院」の院長、鍼灸師の島井 浩次です。
今回は、当院にご来院いただいた「右腕の痺れ」を訴える女性の症例についてご紹介します。
痺れといえば、首の問題、肩の筋肉、手の神経など、比較的“分かりやすい”要因を想像される方が多いと思います。
ですが、この方のケースには、それだけでは説明しきれない“背景”がいくつもありました。
5年前のがん治療、手術後の癒着、抗がん剤による神経への影響、そして日常生活の変化。
それぞれは静かに過ぎていった時間のようでも、身体の中では“重ねられていた負担”として今も影響していたのです。
症状の概要:いつもしびれるわけじゃない?
この女性が最初に来院された理由は「右腕がピリピリするようにしびれる」というものでした。
ただし、その症状は常にあるわけではなく、特に以下のような場面で出現するという特徴がありました。
- 通勤電車での乗り換え時
- 昼食をとりに外へ出た時
- 急な寒暖差にさらされたとき
日常生活の中で、ふとしたタイミングにだけ現れる右腕のしびれ。
これは、私たちが“自律神経性のしびれ”や“交感神経反応性の過敏化”を考える上で重要なヒントになります。
問診で明らかになった過去:乳がん・子宮がん・抗がん剤治療
丁寧に問診を進めていく中で、彼女には5年前に以下の既往があることが分かりました。
- 子宮がんと乳がんを経験
- 両部位ともに手術を受けている(術創部の癒着あり)
- 抗がん剤治療も実施(副作用は一時的だったが、その後もしびれや知覚過敏が時折あった)
抗がん剤による末梢神経障害(CIPN:Chemotherapy-Induced Peripheral Neuropathy)は、治療終了後数年経ってからでも、“神経の脆弱性”として症状に影響を与えることが知られています。
たとえ日常的な症状がなかったとしても、神経の再生能力や伝導速度には“静かな低下”が潜在していた可能性があります。
そして今回は、その「脆弱な神経環境」に、「交感神経優位」や「寒暖差」「筋緊張」などが加わることで、症状が顕在化したと考えられました。
最近の生活スタイルの変化:身体を動かさない“新しいストレス”
さらに、症状が出始める1ヶ月ほど前に、職場での部署異動があったとのこと。
それまでは比較的立ち歩くことの多い業務だったのが、異動後は「ほとんど座りっぱなしでPCと書類を扱う毎日」に変わったそうです。
このような変化は、
- 頸肩部の筋緊張増大
- 固有感覚の低下(身体の位置感覚)
- 血流の停滞
- 眼球運動の固定化
などを引き起こしやすく、結果的に「神経の過敏性」「血流障害」「トリガーポイントの活性化」といった問題を生む温床になります。
検査で見えてきた“神経の傾き”
初診時の検査で以下のような所見が得られました。
- 右斜角筋と胸鎖乳突筋に圧痛とトリガーポイント
- 眼球運動検査:パースートにサッケード混入
- 輻輳反射に左右差あり
さらに、OPK(Optokinetic stimulation)を用いたバランステストも実施。
バランスボード上に立ってもらい、耳側方向へのOPK刺激を提示したところ、片側刺激時にのみ体幹動揺が大きくなるという現象が見られました。
これは、小脳や前庭、小脳虫部を含む“視覚−体性感覚−前庭の統合”に異常があることを示唆するサインです。
そして、その他の小脳機能検査でも…
- ロンベルグテストでは、視覚遮断時にふらつきが増大
- 指鼻試験では右手での位置誤差が大きく、スムーズさに欠ける
- 交互回内回外テストでは右手のリズムと協調性に乱れ
これらの結果から、右小脳半球の機能低下と、それに伴う姿勢制御・視覚運動の統合不良があると判断されました。
治療方針:神経系の「再統合」を促すアプローチ
施術は週1回、計7回実施。
▼ 鍼治療
- 斜角筋・胸鎖乳突筋のトリガーポイントに対する刺鍼
- 胸郭出口症候群様の絞扼負荷を軽減
▼ 小脳−前庭系への刺激
- 眼球運動トレーニング(スムースパースート、輻輳維持)
- 視覚刺激下での重心移動トレーニング(OPK応用)
▼ 自律神経系の調整
- 耳介迷走神経刺激(軽刺激)
- 呼吸法指導(横隔膜主導の腹式呼吸)
特にポイントは、「過度な刺激を避けること」。
神経は“追い込む”より“安心させる”ことで、本来の柔軟性と統合性を取り戻しやすくなります。
治療経過と変化
回数 | 変化 |
---|---|
1回目 | 刺激後の違和感は軽度。しびれはやや軽減 |
2回目 | 通勤電車での症状が半減 |
3回目 | 昼食時の寒暖差によるしびれが出現しなくなる |
5回目 | OPK刺激時の体幹動揺が顕著に減少 |
7回目 | 自覚症状ほぼ消失。再検査でもバランス良好 |
考察:神経は“積み重ね”の上に症状を出す
この症例は、いわゆる「首のトリガーポイント」だけで語れるものではありません。
5年前の抗がん剤治療は、当時は一過性の副作用で終わったかに見えても、神経には“静かな傷”を残します。
その後の術後癒着や環境ストレス(部署異動による運動量低下)、そして視覚・前庭・体性感覚の統合低下が重なることで、
"たまたま今、症状が現れた"
のではなく、
"積み重なった結果、今が限界だった"
という見方ができます。
おわりに:神経は、静かに叫んでいる
「今まで平気だったのに、なぜ急に?」
そう感じる症状ほど、実は身体の中では長く静かな積み重ねが起こっていることが少なくありません。
そしてその“声なき信号”をキャッチするのが、私たち施術家の役目です。
今回のケースでは、
- トリガーポイント
- 自律神経の左右差
- 小脳の機能低下
- 感覚統合の崩れ
これらすべてが重なり合い、右腕のしびれという形で現れていたことが分かりました。
もし、あなたやあなたの周りに「原因がわからない不調」でお悩みの方がいらっしゃれば、ぜひこうした“積み重なった背景”にも目を向けてみてください。
参考・出典文献
- Boyette-Davis JA et al. Mechanisms of chemotherapy-induced peripheral neuropathy. Pain Manag. 2013.
- Wang Y et al. Optokinetic stimulation and balance control. J Vestib Res. 2015.
- Matsugi A et al. Effects of visual stimulation on postural sway. Gait Posture. 2019.
- Purves D et al. Neuroscience. 6th ed. Oxford University Press.
- Moloney N et al. Autonomic nervous system dysfunction in persistent pain states. Pain Rep. 2016.
- Maeda K et al. Functional neuroanatomy of convergence eye movements. J Neurophysiol. 1999.