
1:はじめに
こんにちは。はる鍼灸整骨院 院長の島井浩次と申します。
私は日々、腰痛や肩こり、めまいといった様々な不調に悩む方と向き合いながら、症状の背景にある「身体の使い方」や「神経の働き」まで深く掘り下げる施術を行っています。
今回ご紹介するのは、30代の元実業団ラガーマンの男性。
引退して数年経ってもなお続く“腰の痛み”に悩まされていた彼の症状には、現役時代の怪我やプレースタイルだけでなく、「感覚」や「位置覚」といった“見えない要素”が大きく関わっていました。
この記事では、彼の回復までのプロセスをご紹介しながら、
・なぜ腰が痛むのか
・手術後の身体の変化
・筋肉と脳の意外な関係
・施術によってどう変化したのか
などを、なるべく専門用語をかみ砕きながらお伝えしていきます。
きっとあなたの“痛み”に対する見方も変わるはずです。
2:“あの手術”が引き起こした思わぬ代償
「ACLの再建手術をしてから、なんとなく足の使い方がおかしいんです」
彼がそう話していたとき、私はすぐに「位置覚」の問題を疑いました。
前十字靭帯(ACL)の再建では、ハムストリングスの一部、特に半腱様筋腱を移植することが多いのですが、これによって筋力低下だけでなく、深部感覚――つまり、身体の位置を正確に感じ取る力が落ちることがあります。
彼の場合、手術を受けた左脚に「重さ」や「ズレた感覚」が残っており、さらにその周囲を補おうとするように、臀部の筋肉に余計な負担がかかっていました。
この“代償動作”の積み重ねが、腰の慢性的なトリガーポイント形成、さらには関連痛へとつながっていたのです。
これは、例えるなら「折れたテーブルの脚を他の脚が必死に支えている」状態。
一見バランスは取れていても、どこかに無理が生じてしまいます。
3:代償の連鎖――お尻に忍び寄る“隠れたコリ”の正体
彼の臀部には、明確な圧痛点がいくつもありました。
中殿筋・梨状筋・大臀筋――これらは本来、骨盤と股関節を安定させる役割がありますが、彼の場合はハムストリングスの機能低下を補おうと“過剰稼働”していたのです。
こうした状態が長く続くと、筋肉の中に小さな「硬結(かたまり)」=トリガーポイントが形成され、それが関連痛として別の部位――今回は腰部――に痛みを飛ばしてしまいます。
まさに“敵は本能寺にあらず”、腰の痛みの原因は腰にはなかったのです。
このことをご本人にお伝えしたとき、
「確かに、お尻がだるくて、イスに長く座れないことも多いです」
と納得された様子でした。
4:「ただのコリ」と思ったら大間違い。小脳と感覚の意外な関係
施術前の検査で注目したのが、小脳機能の低下を示す“ロンベルグ徴候”と“オルタネイト動作”の異常でした。
ロンベルグテストとは、目を閉じた状態で立ったときのふらつきを調べる検査です。
彼はこのテストで大きく揺れ、バランスがとれていませんでした。
また、オルタネイト動作(交互運動)もぎこちなく、動作の「スムーズさ」が明らかに失われていたのです。
これらは、小脳――運動の調整を司る“指揮者”のような存在――の働きがうまくいっていない可能性を示唆します。
小脳の機能低下は、筋肉の緊張を不必要に高めてしまい、過剰な負担となって痛みを引き起こします。
5:“腰痛クッションとコルセット”が手放せない日々
営業車に乗るときも、デスクで資料を作成しているときも、彼は必ず「腰痛クッション」と「コルセット」を使用していました。
「それがないと不安で…」と語るその姿からは、痛みが単なる“症状”ではなく、“生活の一部”として根付いてしまっている現実が見えてきました。
クッションで物理的な圧迫を緩和し、コルセットで支えを補強する。
これは「家の壁にヒビが入ったからとりあえずガムテープで止めている」ようなもの。
一時的に安心感は得られても、根本的な構造の修復には至っていません。
6:“感覚のズレ”が痛みを作る。左足底の触圧覚異常とは?
検査で気になったのは、「左足底の触圧覚が低下している」という点でした。
触圧覚とは、皮膚を軽く押したときに感じる“圧”の感覚のこと。痛覚とは異なり、運動のバランスや姿勢制御にも密接に関わっています。
彼の場合、痛みは感じるのに“触られている感覚”が鈍いという状態でした。これは、身体の地図――“ボディマップ”のズレを意味します。
本来であれば、足底からの入力は姿勢保持やバランスに重要な情報源。
しかしその入力が不安定になることで、体幹部や腰部に余分な緊張が生まれていたのです。
7:首と腰の不思議なつながり――ラグビーが残した“斜角筋の痕跡”
さらに見逃せなかったのが、首の前側――斜角筋の強い圧痛と硬結でした。
「ここは自覚はないです」と本人は言うものの、触診するとピクッと反応が出るほど、明らかなトリガーポイントが確認されました。
ラグビーでは、首をすくめたり、衝撃に耐えるために無意識に力を入れたりすることが多く、頚部の筋肉は非常に酷使されています。
その積み重ねが、いわば“古傷”のように神経系に記録され続けていたのです。
斜角筋の緊張は、呼吸や腕の動きにも関与しますし、さらに自律神経や脳幹にも影響を及ぼすことが知られています。
つまり、「腰の痛みなのに、首の筋肉のコリが関係している」――この事実には多くの方が驚かれます。
8:“目の動き”と“腰の痛み”の関係とは?
最も興味深かったのが、眼球運動と後頭下筋群の連動性の乱れでした。
彼は、目で物を追う(パースート)とき、視線が目的の物に止まらず、オーバーシュートしてしまう現象が見られました。
これは、目の動きと首の深層筋(とくに後頭下筋群)がうまく連携していない状態で、小脳の機能低下を示唆する重要なサインです。
私たちは「見る」ことと「バランスを取る」ことを無意識に連携させています。
たとえば、視界が揺れたときに体も揺れるように。
しかしこの連携が乱れると、筋肉の緊張がアンバランスになり、腰部への負担が増すのです。
9:治療スタート――まずは「地図のズレ」を整える
初回の施術では、身体の“ボディマップ”の再構築をテーマにしました。
まずはハムストリングスと臀部のトリガーポイントへの鍼治療を行い、続いて足底や後頭下筋群への感覚刺激を加えました。
感覚と運動のフィードバックループを正しく作ることが重要です。
施術中は、鍼の響きよりも「じんわり伝わる感覚」に意識を向けてもらいました。
10:鍼が刺さるたびに、体が少しずつ“思い出していく”
2回目以降は、筋肉の反応も良くなり、「お尻のだるさが減ってきた気がする」との感想をいただきました。
4回目では「車の運転が少し楽になった」と変化が現れました。
トリガーポイント鍼治療は、筋繊維の硬結を解き、神経系の再学習を促す作用があります。
継続することで「忘れていた動き」を思い出していくのです。
11:機能神経学的アプローチ――“脳と筋肉の会話”を整える
6回目以降は、視覚刺激・バランス訓練・眼球運動の調整など、機能神経学的手法を本格導入。
後頭下筋群と眼球の協調運動や、足底刺激と深部感覚入力を並行して行いました。
施術後は「歩いていて、地面の感覚がよく分かる」「視界が安定する感じがする」との変化も。
12:8回目を迎える頃、“腰痛クッション”が要らなくなった
「最近はクッションを忘れて出社しても、何とかなるんです」
彼がそう話したのは8回目の施術後。コルセットも時間を区切って外せるようになっており、身体の内側からの安定感が戻りつつありました。
この段階では、施術の刺激は徐々に減らし、自律的なバランス維持力を高めるフェーズへ。
13:10回目の施術――「朝の痛みがほとんど消えました」
最後の週1回ペースでの施術を終えたタイミングで、「朝の痛みがすごく軽くなっていて驚きました」と笑顔を見せてくれました。
完全に痛みがゼロになるわけではないが、“痛みに支配されない生活”を取り戻した実感があるとのことでした。
14:その後のメンテナンスと今
現在は月1回のメンテナンス通院を継続中。
営業活動も支障なくこなせており、休日はラグビー部のコーチとして学生たちを指導されています。
「自分の体のことを理解できたのが一番の収穫かもしれません」 そう語る表情には、頼もしさがにじんでいました。
15:終わりに――「痛みは、体がくれる“再教育”のチャンス」
痛みは、単なる異常ではなく「身体からの学び直しのサイン」かもしれません。
とくにスポーツ経験者や手術歴のある方は、無意識のうちに“ズレた地図”を使って生活している可能性があります。
今回の症例が、慢性腰痛や姿勢の不安定に悩む方へのヒントとなれば幸いです。
参考文献/出典論文
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