~鍼治療と機能神経学で”動ける身体”を取り戻すまで~

はじめに:日常が「腰痛」という重りで覆われるとき
「朝、布団から起き上がるのが怖い」「靴下を履くのが一苦労」「イスから立ち上がるとき、誰かに背中を押してほしい気分になる」――。
これは当院に来られた38歳の男性、Sさんが初めてカウンセリングで話された言葉です。
Sさんは建築関係の現場監督。腰を使う作業も多く、時にデスクワークもこなす、いわば「動いて・考えて・支える」お仕事です。
そんなSさんを数年にわたって苦しめていたのが、慢性的な腰痛でした。
1,「痛み止めが効かなくなってきた…」治らない腰痛の始まり
最初は「たまに重くなる」程度だったSさんの腰痛。
30代前半から現場での負担を感じ始め、30代後半に入ってからは次第に「腰が曲がらない」「朝から痛む」「脚にも違和感が出る」と悪化していきました。
整形外科では「椎間板の変性」「軽度のヘルニア」と診断され、リハビリや牽引療法、痛み止めや湿布も一通り試しました。
しかし、こうした“対症療法”では、根本の解決には至りませんでした。
Sさんは言いました。
「腰をかばって変な動きになって、肩や首もガチガチになってきて。痛みを避けようとしてるうちに、全身がロボットみたいに動かなくなってました。」
2,初診時の印象「腰の問題は“脳の防御反応”?」
Sさんが当院に来られたのは、知人の紹介でした。
「鍼灸って効くのかな…?」半信半疑だったといいますが、当院では鍼治療と“機能神経学”の視点を合わせたアプローチをしていることに興味を持たれたそうです。
初回の検査では、こんなことが分かりました。
- 姿勢は大きく前傾、体幹の筋肉にアンバランスな緊張
- 眼球運動の左右差(視点移動のぎこちなさ)
- 頸部〜仙骨の可動性低下(特に伸展が苦手)
- バランステストでは立位保持に不安定さ
- 腰椎周囲の知覚過敏(触れるだけで痛い)
そして一番のポイントは、
「動かすと痛い」のではなく、「痛いから動かせない」状態になっていること。
これは、脳が“これ以上動かすと危ない”と判断して、防御反応を起こしている可能性があるということです。
3,「脳がブレーキをかけている腰」:機能神経学の視点
なぜ腰に“ブレーキ”がかかるのか?
脳は、身体のあらゆる情報を統合して動きをコントロールしています。
しかし、慢性的な痛みや不安定な感覚が続くと、「この動きは危険だ」と判断して、筋肉を硬直させたり、動きを制限したりします。
Sさんのケースでは、
- 過去の腰部負傷や慢性炎症 → 脳幹への痛覚入力の過剰化
- 視覚・前庭系(バランスをとる神経)の左右差 → 身体感覚の不一致
- 呼吸の浅さ → 自律神経の交感神経優位
- 長期の不安 → 青斑核(脳内の“警報装置”)の過活動
こうした状態が絡み合い、脳の運動制御中枢が「腰部を動かすな」と命令していたと考えられます。
4,鍼治療で「警報」を静める
Sさんには、まず鍼灸治療で「身体の過敏さを鎮める」ことから始めました。
使用した主な経穴:
- 腰腿点、委中:腰の関連痛ポイントの沈静
- 腎兪・志室:自律神経・腎機能のサポート
- 百会・内関:脳のリラックス、青斑核鎮静
- 頸部の夾脊穴:脊髄反射の調整
鍼灸には、痛みの信号をブロックしたり、過剰な交感神経活動を抑える作用があります(Han, 2003)。また、迷走神経刺激効果により、内臓〜脳幹レベルでの安定化も期待できます。
5,機能神経学的アプローチ「動きと感覚を“再教育”する」
脳にとって、「安全に動けた」という成功体験がなによりの薬になります。
Sさんに実施したメニュー:
- 眼球運動トレーニング:滑動・サッケードで脳幹の左右差調整
- 片脚立ちでの感覚入力:前庭神経と小脳の刺激
- 軽い体幹回旋:腰部の“安全な可動域”を再認識
- 横隔膜呼吸法:腹圧と迷走神経の活性化
「怖くない」「動けた」という感覚が脳を安心させ、過剰な防御反応を手放していくのです。
6,日常生活の変化と回復の兆し
約3週間、週2回の施術とセルフトレーニングを続けた頃から、Sさんは次のような変化を感じ始めました。
「朝、起きるのが怖くなくなった」
「痛みを感じずに、歩くスピードが速くなってる」
「肩こりやイライラも減ってる気がする」
その後、施術の間隔を徐々に空けていき、2か月後には「週1回」でメンテナンスを行うペースに移行しました。
7,ご本人の声「あの頃の自分に伝えたいこと」
「もっと早く、体の“本当のつながり”を見てもらえばよかったと思います。
「腰だけじゃなかった。」
「脳とか自律神経とか、最初はピンと来なかったけど、今なら分かります。」
「“体が動けるって、こんなに気持ちいいことなんだな”って、実感してます。」
8,腰痛は“結果”であって、“原因”ではない
慢性腰痛というと、「腰の筋肉が硬い」「骨に異常がある」と捉えられがちです。しかし本当の原因は、
- 脳と神経の誤作動
- 身体感覚のズレ
- “危険だ”と判断した防御反応
当院では、身体の声を「脳・神経・感覚・姿勢」から読み解き、その人が本来持っている回復力を取り戻すサポートをしています。
9,セルフケアアドバイス:腰痛改善のために自宅でできる3つのこと
1. 呼吸のリズムを整える「横隔膜ほぐし呼吸」
- 仰向けに寝て膝を立て、両手をお腹に置く
- 鼻から3秒吸って、口から6秒でゆっくり吐く
- 1日5分、朝と寝る前に
2. 安心感を作る「重心シフト立ち」
- 壁に背中をつけて立ち、かかとも軽くつける
- 肩甲骨とお尻を壁につけて5秒キープ
- 軽く膝をゆするように
3. 視覚と腰のつながりを戻す「目と体幹の連動運動」
- 椅子に座って、目だけで右→左へゆっくり動かす
- 慣れたら、顔→体幹も一緒にひねる
- 各方向5回ずつ、1日1回
10,よくある質問(FAQ)
Q. 鍼って本当に腰痛に効くの?痛くない?
A. 鍼は神経系にも作用し、痛みを鎮めたり自律神経を整える効果があります。
当院の鍼は極細で、ほとんど痛みを感じません。
Q. なぜ「脳や神経」が腰に関係するの?
A. 動きや痛みの制御は脳が担っています。
腰の症状が脳の“過剰防御”によるものであることは珍しくありません。
Q. 機能神経学って何?難しそう…
A. 神経の働きを評価し、再教育して整える医学的なアプローチです。
脳・神経・感覚・動きに着目したリハビリのような考えです。
Q. 通院はどのくらい必要?
A. 初期は週1〜2回。
状態に応じて間隔を空け、2〜3か月でメンテナンスへ移行できるケースが多いです。
出典・参考文献
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Han, J. S. (2003). Acupuncture: neuropeptide release produced by electrical stimulation of different frequencies. Trends in Neurosciences, 26(1), 17–22.
-
Melzack, R., & Wall, P. D. (1965). Pain mechanisms: a new theory. Science, 150(3699), 971–979.
-
Craig, A. D. (2002). How do you feel? Interoception: the sense of the physiological condition of the body. Nature Reviews Neuroscience, 3(8), 655–666.
-
Thayer, J. F., & Lane, R. D. (2009). Claude Bernard and the heart–brain connection: Further elaboration of a model of neurovisceral integration. Neuroscience & Biobehavioral Reviews, 33(2), 81–88.
-
Carrick, F. R. (2017). Neurophysiological Implications in Functional Neurology. Frontiers in Neurology, 8, 379.