
はじめに
はじめまして。大阪府枚方市にある「はる鍼灸整骨院」で、鍼灸と機能神経学の観点から心身の不調にアプローチする施術を行っております、院長の島井です。
突然の原因不明の痛み。
特に、日常生活ではなかなか口にしづらい「陰部の痛み」がある日を境に始まったら、どんなに不安なことでしょう。
今回は、そんな“説明のできない痛み”と向き合い、少しずつ前を向いて歩き出せるようになった、ある40代男性のケースをご紹介いたします。
この記事を通じて、「もしかして自分も同じかも」と感じてくださる方に、少しでも安心や希望を届けられれば幸いです。
1:その痛みはある日突然に
それは、何の前触れもなくやってきました。
「なんだか、右の下腹部が重いな…」
仕事帰りの電車の中で、彼はふとそう感じたといいます。
座席に深く腰を下ろしてスマホを見ていると、じんわりとした違和感が右側の下腹部と陰部に。
まるで、熱した金属が肌の内側を撫でていくようなヒリヒリ感。
それが、日に日に強くなっていったのです。
「誰かに話すのもためらう部位だし、痛いのか、ムズムズするのか、自分でもうまく言葉にできなくて…」
そんな不安を抱えながら、彼は泌尿器科の門を叩きました。
2:検査では異常なし…「陰部神経痛」という診断
泌尿器科での検査は一通り行われました。エコー、血液、尿検査、MRI——いずれも異常は見つからず。
「臓器には問題ないですね。神経性の痛みかもしれません」
そう言われて手渡された診断名は「陰部神経痛(pudendal neuralgia)」。
そして処方されたのは、血流改善薬とビタミン剤。
効いているのか、いないのかもよく分からないまま、薬を飲み続ける日々が始まりました。
「なんだか、ずっとモヤモヤする。心も身体も、霧の中にいるような感じでした」
3:背後に潜む「全身の不調」と神経のネットワーク
実はこのとき、彼には別の悩みもありました。
・長年の肩こりと頭痛
・時々現れる右の坐骨神経痛
・仕事中に強く感じる腰のだるさ
・睡眠が浅く、夜中に何度も目が覚める
こうした症状は、長年のデスクワークに起因するものとして見過ごされていたのです。
しかし、私たちの身体は、まるで蜘蛛の巣のように繊細なネットワークでつながっています。
一部の神経がうまく働かなくなることで、離れた部位にも“連鎖反応”のように不調が波及してしまうのです。
陰部神経痛はまさに、そうした神経の“綱引き”の結果として現れることも少なくありません。
4:初めての来院と評価——「見えない痛み」を可視化する
彼が当院に来院されたのは、診断から2週間ほど経った頃でした。
「いろいろ検査しても原因が分からなくて…。少しでも良くなるなら、と思って来ました」
まず行ったのは、機能神経学に基づいた詳細な評価です。彼の身体には、いくつかの特徴的なサインが見られました。
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眼球運動異常(パースート異常):追視中に左右で動きの滑らかさに差があり、カクカクとした不規則な動き(サッケード混入)がありました。
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足部感覚の左右差:右足の外側の触覚・振動覚がやや鈍く、下部体幹の感覚入力に左右差が認められました。
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呼吸の浅さ:仰向けでの腹式呼吸が不十分で、胸郭の動きも硬くなっていました。
これらの所見は、「脳の中の地図」が乱れていることを意味していました。
とくに、大脳皮質と小脳による運動・感覚の統合がうまくいっていない状態。
つまり、下行性の神経調整系の機能低下を示していたのです。
5:治療方針——鍼灸と機能神経学の合わせ技
当院での治療は以下のように組み立てました。
鍼灸治療
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腹部の圧痛部位(下腹直筋・腸腰筋周辺)への刺鍼
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次髎(仙骨部)と陰部神経出口付近への刺鍼
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自律神経調整を目的とした耳介刺激(迷走神経支配領域)
機能神経学的アプローチ
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左右の眼球運動を整えるリハビリ(視線誘導訓練)
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足部感覚の左右差を減らすための表在感覚トレーニング
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呼吸の再教育(胸郭と横隔膜の連動を高める)
身体をただ“治す”のではなく、「正しく感じて、正しく動く」ための神経の回路を、少しずつ再構築していく作業です。
6:少しずつ変わっていく日常
施術は週に1回のペースで、計12回行いました。
- 3回目:「少しマシになった気がします。夜も1回だけしか起きなかった」
- 5回目:「日中のヒリヒリ感が気にならない時間が増えてきました」
- 8回目:「久々に朝までぐっすり寝られたのが嬉しかったです」
- 12回目:「完璧じゃないけど、痛みが怖くなくなった」
まるで、靄が少しずつ晴れていくように——彼の身体と心は回復に向かって歩んでいきました。
7:痛みと共に「感じ方」も変えるということ
「痛み」とは単なる“物理的なダメージ”ではなく、脳の“解釈”が大きく関係しています。
私たちの脳は、身体の状態・呼吸・睡眠・環境ストレスなどを複合的に統合して「これは危険だ」と判断したときに、痛みを生み出すことがあります。
今回のような陰部神経痛も、神経自体の炎症や圧迫が見つからない場合、脳の“警報システム”の誤作動が原因のことがあります。
それはちょうど、火災報知器が誤作動を起こしているようなもの。
鍼灸や機能神経学のアプローチは、その誤作動をリセットし、本来の感覚と動作の“調和”を取り戻す作業だといえます。
8:緩解(かんかい)というゴール
彼の症状は「完治」ではなく、「緩解(症状がほとんど現れず、生活に支障をきたさない状態)」という形でのゴールを迎えました。
現在は、月に1回程度のメンテナンスで通院されており、仕事も通常通りこなせるようになりました。
「正直、あのときの痛みがまた戻ってくるんじゃないか…って怖さは今でも少しあります。でも、今は『自分で整えられる感覚』があるから安心できます」
この「自己調整力」が、最大の財産となるのです。
おわりに
陰部神経痛は、非常に繊細で、そして誤解されやすい症状です。
しかし、それは決して“気のせい”ではありません。
そして、神経と身体のつながりを丁寧に見つめ直すことで、痛みの出口が見えてくることもあります。
もし、同じような症状でお悩みの方がいらっしゃれば、ひとりで抱え込まず、ぜひ一度ご相談ください。
きっと、あなたの身体が発している“サイン”に耳を傾けることで、回復の糸口が見つかるはずです。
参考・出典文献
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Robert J. Spinner et al. “Pudendal neuralgia: diagnosis and treatment.” Mayo Clinic Proceedings, 2019.
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Robert Maigne et al. “Anatomy and pathways of the pudendal nerve.” Surgical and Radiologic Anatomy, 2001.
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Tracey I. “Pain perception: A new view.” Science, 2010.
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Melzack R., Wall PD. “Pain mechanisms: a new theory.” Science, 1965.
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Roldán C et al. “Neuromodulation techniques in the treatment of chronic pelvic pain.” Pain Physician, 2019.