
はじめに
こんにちは。はる鍼灸整骨院、院長の島井浩次です。
私は、神経学的視点を取り入れた鍼灸施術を通して、さまざまな「原因不明の不調」と向き合ってきました。
今回ご紹介するのは、病院で「機能性ディスペプシア(Functional Dyspepsia)」と診断された30代女性の回復ストーリーです。
食後のゲップや吐き気、胃のムカつきが続き、胃カメラや血液検査では「異常なし」と言われながらも、日常生活に支障をきたすほどのつらい症状に悩まれていました。
「薬を飲んでもよくならない」
「検査では異常がないのに、なぜこんなにつらいのか」
そんな思いを抱えて来院された彼女の症状が、どのようなアプローチで少しずつ改善していったのかを、専門的な視点を交えながら、できるだけ分かりやすくご紹介します。
機能性ディスペプシアや、似たような胃の不快感でお悩みの方にとって、少しでもヒントになれば幸いです。
1. 最初のご相談:「何を食べてもムカムカする」
その女性は、30代の会社員。日々の仕事に加え、実家のサポートなども抱えて多忙な生活を送っていました。
ある日、「最近、食後に必ずゲップが出るようになって、吐き気も出るんです」とご相談に来られました。
症状の概要はこうです。
- 食後10分ほどでゲップが頻発
- 吐き気や胃のムカムカが強く、ひどいときは横にならないと無理
- 背中がいつも張っているような違和感
- 睡眠の質も落ちており、夜中に何度も目が覚める
病院では胃カメラや血液検査を受けたものの、「特に異常はありません」との診断。
処方された薬もあまり効かず、心療内科を勧められることもあったそうです。
2. 本当に「異常なし」なのか?身体の声に耳を澄ます
このような「検査で異常がないのに不調が続く」というケースは、当院ではよくあります。
私たちはまず、構造的・神経的な視点から身体を丁寧に評価していきます。
● 背中の張り:呼吸筋・多裂筋の過緊張
背中を触診すると、特に胸椎下部〜腰部にかけて硬さがあり、深呼吸が浅くなっていました。
これは、「呼吸補助筋」が無意識に過緊張しているサインです。
特に、脊柱起立筋群や多裂筋といったインナーマッスルが常に働きすぎている状態でした。
● 鼠径部の圧痛:大腰筋の異常緊張と「ジャンプサイン」
さらに仰向けでの検査では、鼠径部(足のつけ根)を軽く押すと「うっ!」と声が出るほどの圧痛が。
これは、大腰筋の過緊張による「ジャンプサイン」と呼ばれる反応です。大腰筋は胃腸の働きにも深く関わる筋肉で、迷走神経との関連性もあります。
これらの所見から、「迷走神経系の機能低下」と「体幹深部筋の過緊張による消化機能の乱れ」が疑われました。
3. 不調の「隠れた原因」とは?
ここで、「なぜ自律的に働くはずの胃腸がこんなにも乱れるのか?」という問いに対して、私たちは次のような機能神経学的な視点を持ちます。
● 迷走神経(副交感神経)の機能低下
迷走神経は、脳幹から出て全身の臓器に分布する「リラックス系の神経」。
この神経がうまく働かないと、胃の運動・胆汁の分泌・腸のぜん動などすべてが鈍くなります。
スマホやPCの長時間使用、慢性的な浅い呼吸、精神的ストレスなどが重なることで、迷走神経の働きが鈍くなり、結果として「胃が動かない=消化できない=ゲップ・吐き気」へとつながっていたのです。
● ATP不足:細胞レベルのエネルギー枯渇
さらに注目すべきは「ATP(細胞のエネルギー源)」の低下です。
呼吸が浅くなり、横隔膜が動かなくなると、ミトコンドリアが十分に働かずATPが作られません。
ATPが不足すると、神経や筋肉の働きが低下し、胃腸のような「自律的に動く臓器」がさらに機能不全に陥ります。
まさに「静かなるエネルギー危機」だったのです。
4. アプローチの方向性:身体の“再起動”を目指して
ここからは施術の実際です。
● 呼吸法によるATP産生のサポート
まず初回は、「深くてゆっくりした呼吸」を取り戻すことに集中。
椅子に座って、横隔膜を意識した腹式呼吸を練習しました。
最初は苦しそうでしたが、背中の緊張が少しずつ緩み、「体の中に酸素が入ってくる感じがする」と変化を感じられました。
● 鍼治療:的を絞ったトリガーポイントへの刺激
2回目以降は、以下のポイントに鍼を行いました。
- 多裂筋(背部):自律神経のバランスと姿勢制御
- 大腰筋(腹部側からアプローチ):胃腸と腰のつながりの調整
- 頚部交感神経節(星状神経節周囲):上位中枢への間接的アプローチ
「ズーンと深く効く感じがする」「終わった後、胃が静かになってる」との声も出てきました。
● 大腰筋(背部からのアプローチ):胃腸と腰のつながりを調整
大腰筋は、腰椎の前面から股関節にかけて走るインナーマッスルで、体幹の安定や股関節の屈曲に関わるだけでなく、内臓と神経の“ハブ”のような存在でもあります。
この大腰筋は、胃腸を支配する迷走神経の走行ルートに隣接し、また交感神経系の節(腹腔神経叢など)にも近接しているため、その緊張や機能低下は消化機能や自律神経バランスに直接的な影響を及ぼします。
今回は、背部から腰椎横突起間を狙って深層刺鍼を行い、大腰筋に直接アプローチ。
このアプローチにより、以下のような効果を目的としました:
- 腰部深層の過緊張緩和(姿勢・呼吸・臓器の圧迫改善)
- 迷走神経の活性化補助(内臓機能の回復)
- 呼吸の改善とATP産生の促進(自律神経系の正常化)
大腰筋への深層鍼は高度な技術を要しますが、正確にアプローチできれば、「胃腸がじわっと温かくなる感じ」「呼吸が通りやすくなる」といった体感を得られることが多く、胃もたれやゲップといった症状の軽減につながります。
● 機能神経学的アプローチ:迷走神経を“呼び覚ます”
耳介への電気刺激で迷走神経をサポート
施術の一環として、耳介(耳の一部)にある迷走神経の末梢枝への微弱な電気刺激を行いました。
この部位には、迷走神経の耳介枝(耳介迷走神経)が分布しており、低周波刺激によって自律神経系に穏やかな反応を促すことが期待されます。
実際の施術後には、
「お腹がグルグルと動き出すような感覚があった」
「なんとなくリラックスして、気持ちが落ち着いた」
といった変化を感じられることが多く、患者さんの反応を見ながら継続的に取り入れました。
このような刺激は、交感神経優位から副交感神経優位への移行を促す一助となり、消化機能の回復や不快感の緩和に役立つ可能性があります。
5. 変化の兆し:「気づいたら食後が楽に」
3回目の施術後から、彼女自身の言葉でこんな変化が語られました。
「食後のゲップが減ってることに、気づいてなかったくらいです」
「あんなに毎回ムカムカしていたのに、最近は普通にご飯が楽しめるようになってきました」
変化は“劇的”ではありませんが、“自然”で“当たり前のように”訪れてきたのです。
それが、機能神経の回復による施術の特徴でもあります。
6. 再発予防に向けて:日常の「小さな選択」を見直す
回復の後半は、再発予防のためのセルフケアと生活習慣の見直しを行いました。
- 呼吸習慣の定着(5分の腹式呼吸)
- 夕食の時間と咀嚼の意識化
- スマホの画面を長時間見ない工夫(休眼タイム)
- 背中や股関節の柔軟性を高めるストレッチ
これらは、どれも「自律神経に優しい暮らし」のための下地づくりです。
7. 最後に:「症状」と「神経の誤作動」のギャップを埋める
今回のケースでは、胃そのものに異常はありませんでした。
でも、胃を動かす神経がうまく働いていなかった。
それはまるで、優秀なシェフがいても、電源が入っていない厨房のような状態。
「機能性ディスペプシア」や「胃の不調」にお悩みの方にとって、「器質的異常なし=気のせい」ではありません。
神経や呼吸、筋肉、生活習慣の小さなズレが、確かに不調の原因となり得るのです。
【参考・出典】
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Breit S, Kupferberg A, Rogler G, Hasler G. (2018). Vagus nerve as modulator of the brain–gut axis in psychiatric and inflammatory disorders. Front Psychiatry.
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Tracey KJ. (2002). The inflammatory reflex. Nature.
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Takahashi T. (2017). Mechanism of acupuncture on neuromodulation in the gut–brain axis. International Review of Neurobiology
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Clancy JA, Mary DA, Witte KK, Greenwood JP, Deuchars SA, Deuchars J. (2014). Non-invasive vagus nerve stimulation in healthy humans reduces sympathetic nerve activity. Brain Stimulation.